パストラル・ハープの歴史


パストラル・ハープの歴史

このプログラムの歴史

 死に瀕した人の身体的、精神的、霊的な苦痛を音楽で慰め、安らかにあの世に送り届ける営みは、歴史上各地でしばしば行われてきましたが、ここではパストラル・ハープの源となった音楽死生学(ミュージック・サナトロジー“music thanatology”)について述べましょう。
 これは1990年代初頭、テレース・シュローダー・シーカー(Therese Schroeder-Sheker)によって始められたもので、このプロジェクト全体は「魂の休息の杯」(Chalice of Repose Project)と名づけられています。主にハープと歌声による身体的、精神的、霊的苦痛の緩和を図ることを目的としたものです。

 この方法の源は11世紀のフランスのクリュニーにあったカトリック、ベネディクト会派の修道士たちの活動にまでさかのぼることができます。当時の修道院で行われていた医療は、手術や薬の服用に祈りや祝福を結びつけることで、身体の介護(care)と魂の癒し(cure)となるよう務められてきました。修道士たちは、祈りや詩篇を歌うことで、生活の中に音楽による癒しを取り込んでいき、仲間の修道士が死に瀕すると、そのかたわらで絶え間なくグレゴリオ聖歌を歌いつつ、看取りを行っていたといいます。
 音楽死生学(music thanatology)は、この働きのエッセンスを現代において再現させようとするものです。

 ことの始まりは1972年、当時アメリカのコロラド州の大学生であったテレース・シュローダー・シーカーによります。彼女はデンバーの老人施設で学資を得るためにアルバイトをしていましたが、入居者のひとりに神経質で気難しい男性がいて、他の職員からも煙たがられていました。彼女が当直をしたある晩、その男性の部屋を訪ねると、男性はひとり死に臨んで心身ともに苦しんでいました。死が近いことを察したテレースは男性のもとへ行き彼に寄り添います。
 幼少時代より熱心なカトリック信者であった彼女は、彼の魂の平安を願い、そのいまわのきわに、彼の頭を抱き抱擁しながら慣れ親しんだグレゴリオ聖歌を歌ったところ、その男性は平安な表情になり、安らかに死へと旅立っていきました。
 死に逝く人を前にして思わずとったこの経験から彼女は看取りについて深いインスピレーションを受けます。これがミュージック・サナトロジー再現の契機となりました。彼女はこのときからコロラド州デンバーを中心にして、この活動を一人で開始し、主にこの地区の大学と神学校で20年あまり活動することになります。

 1980年にはカーネギーホールでデビューコンサートを行い成功を収めます。現在、一般の人々に向けた数多くの演奏会が開かれ、医師や看護師といった医療関係者を対象とした講演会や研修会も行われています。
 1990年代初頭には彼女はこの「魂の休息の杯プロジェクト」(Chalice of Repose Project)を確立し、音楽死生学の実践と教育に心血を注ぎます。’90年、モンタナ州ミゾーラ市にあるカトリック系の私立病院、聖パトリック病院が、看取りのための正式なプロジェクトとして音楽死生学を取り入れることを決め、彼女を招聘。以来彼女はここを拠点に活動し、この病院附属の、ミュージック・サナトロジー学校(School of Music Thanatology)を創設してその教育プログラムに責任を負いつつ実践しました。

 2002年、この活動をさらに広め、理論と実践の現場を広げるため、講義をインターネットを通じてオレゴン州より発信するとともに、臨床の場をジョン・ホプキンス大学附属病院と提携するようになりました。また、彼女は多くの著書を発表しており、現在、音楽死生学はアメリカを中心に広がりを見せています。

日本におけるパストラル・ハープという形での新たな展開

 日本におけるこの種の活動は、東京都台東区にある通称山谷地区の「在宅ホスピスケア対応型集合住宅施設『きぼうのいえ』(運営:特定非営利活動法人 山谷・すみだリバーサイド支援機構)においてのみ、サック・キャロル氏によって行われています。2004年より週1回のペースで行われています。
 具体的には、1人30分程度のセッションで、1回に2名程度の入居者に実施されます。きぼうのいえでは、臨死的な終末期のみならず、自然的終末期(ナチュラルターミナル)の入居者も多く生活しており、その時々に応じて、施設長、ソーシャルワーカー、看護師らの判断と本人の希望に応じて施術されています。